居酒屋探偵DAITENの「がっかり録」第7回/池上線・またひとつ消える灯火
居酒屋探偵DAITENの「がっかり録」第7回 【地域別】 【時間順】 【がっかり集】
池上線・またひとつ消える灯火
ある日の夕暮れ時、普段乗り降りをしない駅で降りてみることにした。実は、いつも電車の中から線路沿いにあるその店の赤提灯が気になっていたのである。
赤提灯はかなり年季が入った物のようで、ずいぶんと傷んでおり、店の名前を示す文字もかすれて読みづらい。入口の引き戸もだいぶ傷んでいる。入口の上に「ホッピー」と書かれた小さな赤提灯がいくつか下げてある。
多少の躊躇いを振り切って、引き戸に手を掛けた。あまり明るくない店内である。右手にカウンターがあり、6、7人が座れるようになっている。カウンターの中は調理場である。すぐ目の前の左手に四人掛けのテーブルが2つ。その奥に小上がりが2卓あり、さらに右手奥には座敷があるようだが、天井の電灯が消してあってよく見えない。
一番手前の小上がり卓の一つが妙に散らかっている。ソース、しょうゆ、ドレッシングなどが乱雑にならび、時刻表やえんぴつ削り、雑誌、スポーツ新聞等が卓を埋めている。しかし、客が帰った後という訳ではない。その席にマスターらしき初老の方が座っており、タバコを吸いながらテレビを見ている。まるで万年床のように、いつもマスターが控えている場所に違いない。男所帯のアパートにおじゃました気分である。「いらっしゃい」と言いながら、弱々しげに微笑み、マスターが立ち上がる。
カウンターには二人のお客さんが静かに座っていた。ビールなど飲みながら画面の乱れたアナログ放送を眺めている。
ホッピーを注文する。後から「氷無しでお願いします」と言ったが、マスターの耳には届かなかったのか、サワーグラスに入って出てきたホッピーは氷入りであった。ホッピー原理主義はまったく通じないようである。突きだしはメカブである。
マスターは実に丁寧に対応してくれる。しかし、どこか儚げな風情である。私は、ある情報からこの店があと数カ月で閉店であることを知っているのだ。古い雑居ビルの再開発による立ち退きである。もう何かを努力する必要はないのかもしれない。
「厚揚げ」をお願いした。丁寧に焼かれた厚揚げは、食べやすい大きさに切ってあり、分葱のみじん切りがたくさん掛かっている。実においしかった。レモンサワーも頼んだ。
マスターは、他のお客さんに何か料理を出す度に、「味つけは辛くありませんか」等と聞いている。とても優しい。しかし、声に力がない。何かが終わっているのだろう。
マスターは料理を出すと、再びさきほどの定位置に座ってタバコを吸い始めた。
男が四人。みんなで黙ってテレビを見ている。NHKのニュースである。今日の相撲の結果をニュースが伝える。マスターが相撲の話題をお客さんたちに持ちかける。私も少し言葉を返した。一人の男性客が帰ってゆく。また静かになった。
やがて、テレビでは独り暮らしの高齢者を扱った番組が始まった。今、独り暮らしに関する本が売れているという。
マスターとお客さんと私の三人でじっとテレビを見る。さらに静かな時間が流れていった。「子供と同居したいか」という親世代に対するアンケートの答えが示される。1995年は60.9バーセント 。2006年は40.1パーセントであるという。
四十分ほどの時間が過ぎた。お勘定をお願いする。紙に数字を書いてくれた。その数字が1380円に見えた。他の客に金額が解らないようにという心遣いであろうか。小銭を用意して、1380円をテーブルに並べた。すると「1300円です」と言う。「字が汚くてすいませんね」と微笑むマスター。私も微笑み返した。
今回の「がっかり録」は、この店そのものにがっかりしたから書いたのではない。この人がやっているこの店があと数カ月で消えることに、とてもがっかりしたから書くことにしたのである。
帰り道、家の近くの書店で〈ヴィレッジブックス刊 リディア・フレム/著 友重山桃/訳「親の家を片づけながら」(1260円)〉という本を見つけ、購入した。

書籍紹介には次のように書かれていた。
「父亡きあと、ひとり暮らしをしていた母が逝った。ひとり娘の私に残されたのは、両親の思い出に満ちたこの一軒の家だ。私は途方に暮れた。あまりにも多くの「物」が、ここにはある。今までは触ることすら禁じられていた両親の大切な私信や思い出の品々。しかたなく片づけるうち、やがて姿を現したのは、まったく知らなかった両親の素顔と、ふたりが生涯抱えていた深い心の傷だった―。」
古い酒場の灯火が消える時、私たちの中の何かも、またひとつ消えてゆくのである。
(了)
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池上線・またひとつ消える灯火
ある日の夕暮れ時、普段乗り降りをしない駅で降りてみることにした。実は、いつも電車の中から線路沿いにあるその店の赤提灯が気になっていたのである。
赤提灯はかなり年季が入った物のようで、ずいぶんと傷んでおり、店の名前を示す文字もかすれて読みづらい。入口の引き戸もだいぶ傷んでいる。入口の上に「ホッピー」と書かれた小さな赤提灯がいくつか下げてある。
多少の躊躇いを振り切って、引き戸に手を掛けた。あまり明るくない店内である。右手にカウンターがあり、6、7人が座れるようになっている。カウンターの中は調理場である。すぐ目の前の左手に四人掛けのテーブルが2つ。その奥に小上がりが2卓あり、さらに右手奥には座敷があるようだが、天井の電灯が消してあってよく見えない。
一番手前の小上がり卓の一つが妙に散らかっている。ソース、しょうゆ、ドレッシングなどが乱雑にならび、時刻表やえんぴつ削り、雑誌、スポーツ新聞等が卓を埋めている。しかし、客が帰った後という訳ではない。その席にマスターらしき初老の方が座っており、タバコを吸いながらテレビを見ている。まるで万年床のように、いつもマスターが控えている場所に違いない。男所帯のアパートにおじゃました気分である。「いらっしゃい」と言いながら、弱々しげに微笑み、マスターが立ち上がる。
カウンターには二人のお客さんが静かに座っていた。ビールなど飲みながら画面の乱れたアナログ放送を眺めている。
ホッピーを注文する。後から「氷無しでお願いします」と言ったが、マスターの耳には届かなかったのか、サワーグラスに入って出てきたホッピーは氷入りであった。ホッピー原理主義はまったく通じないようである。突きだしはメカブである。
マスターは実に丁寧に対応してくれる。しかし、どこか儚げな風情である。私は、ある情報からこの店があと数カ月で閉店であることを知っているのだ。古い雑居ビルの再開発による立ち退きである。もう何かを努力する必要はないのかもしれない。
「厚揚げ」をお願いした。丁寧に焼かれた厚揚げは、食べやすい大きさに切ってあり、分葱のみじん切りがたくさん掛かっている。実においしかった。レモンサワーも頼んだ。
マスターは、他のお客さんに何か料理を出す度に、「味つけは辛くありませんか」等と聞いている。とても優しい。しかし、声に力がない。何かが終わっているのだろう。
マスターは料理を出すと、再びさきほどの定位置に座ってタバコを吸い始めた。
男が四人。みんなで黙ってテレビを見ている。NHKのニュースである。今日の相撲の結果をニュースが伝える。マスターが相撲の話題をお客さんたちに持ちかける。私も少し言葉を返した。一人の男性客が帰ってゆく。また静かになった。
やがて、テレビでは独り暮らしの高齢者を扱った番組が始まった。今、独り暮らしに関する本が売れているという。
マスターとお客さんと私の三人でじっとテレビを見る。さらに静かな時間が流れていった。「子供と同居したいか」という親世代に対するアンケートの答えが示される。1995年は60.9バーセント 。2006年は40.1パーセントであるという。
四十分ほどの時間が過ぎた。お勘定をお願いする。紙に数字を書いてくれた。その数字が1380円に見えた。他の客に金額が解らないようにという心遣いであろうか。小銭を用意して、1380円をテーブルに並べた。すると「1300円です」と言う。「字が汚くてすいませんね」と微笑むマスター。私も微笑み返した。
今回の「がっかり録」は、この店そのものにがっかりしたから書いたのではない。この人がやっているこの店があと数カ月で消えることに、とてもがっかりしたから書くことにしたのである。
帰り道、家の近くの書店で〈ヴィレッジブックス刊 リディア・フレム/著 友重山桃/訳「親の家を片づけながら」(1260円)〉という本を見つけ、購入した。

書籍紹介には次のように書かれていた。
「父亡きあと、ひとり暮らしをしていた母が逝った。ひとり娘の私に残されたのは、両親の思い出に満ちたこの一軒の家だ。私は途方に暮れた。あまりにも多くの「物」が、ここにはある。今までは触ることすら禁じられていた両親の大切な私信や思い出の品々。しかたなく片づけるうち、やがて姿を現したのは、まったく知らなかった両親の素顔と、ふたりが生涯抱えていた深い心の傷だった―。」
古い酒場の灯火が消える時、私たちの中の何かも、またひとつ消えてゆくのである。
(了)
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